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おことわり

しがない教員が、思ったことを思ったままに書き綴るサイトです。書くことで、思考を整理したり、ログをとったりしています。だから、筆者以外の人が読んでも一文の得もないと、先に断っておきます。

どのようにしてたどり着かれたのか分かりませんが、お目汚しを失礼しました。どうか、あなたの時間を無駄にしないためにも、ほかのサイトをオススメ致します。

めざせ、1ヶ月1記事

学校教育と、生徒が学びに向かう主体性について

「主体的」という言葉を「自発的」「積極的」というのと同等に見る考えもあるだろう。しかし、少なくとも私は、それらに「自律的」という意味を加えたものが「主体的」である、と考えている。学びに積極的であるとか、自発的に学んでいること以上に、自分で学ぶことを決めている状態をもって、主体的に学んでいると見たい。

そもそも教育や学びとは、本質的に受動的なものであるということと、理解している。個人が、社会に適応し、その社会の発展的な継続に寄与できるようになることを社会は要請する。そのために施されるのが教育であり、そこで個人が見せる様態が学びである。ゆえに、個人は社会から学ばさせられている、と見ることができる。

狩猟によって生計を立てている家族集団という単純なモデルであったとしても、このことは言える。親から子への狩りの方法の伝達は、真に迫ったものであって、子の学びは能動的なものであろう。一方では、その伝達は、集団が継続するために行われていると考えることができるので、受動的なものである。

実際の社会はもっと複雑なモデルと見るべきだ。そこで繰り広げられる学びの形も多岐に渡る。学びの受動性の問題は、その全てにわたって潜んでいると考えている。たとえば、自動車学校やダンススクールでの学びは一見主体的だが、自動車が無ければ暮らせない、とか、文化的な活動を行うことに価値を付与する、とかいった社会の状況に「させられている」という性格を取り除くことはできない。

学びの持つ本質的な受動性が意識されていなければ、主体的な学びであるとは思わない。あるいは、「その性質を除いて」というカッコ書きを付けて学びの主体性を論じるのにも違和感がある。これでは、学習者がその真実に気づいたときに、学びの主体性は破綻し、それまでの自分の学びは主体的であったのか、という病質的な問いに苛まれる恐れがある。

私は、むしろ、主体的な学びという言葉の矛盾を直視しながらも、先に述べたように自発・積極・自律的に学んでいる状態を、真に主体的な学びであると考えることで、安定を得たいと考えている。

学びの主体性を論じるとき、このような複雑な問題が立ちはだかってしまう。発達の問題もあって、個人に施される教育の全ての局面が、主体的な学びであることを規定するような統制は、それを打ち立てた段階から無理をきたしている。公教育においては、とくに言えることである。本来は保護者に対する義務であるとはいえ、教育を施されることが義務と見られ得る義務教育は、それ自身がすでに主体性という言葉と矛盾している。私が携わる高等学校での教育も、大学全入と言われる現在においては、義務教育と同じになりつつある。

高校に通わないという選択を社会は容認せず、高校に進学することはほとんど決められているに等しい。また、通うことのできる学校は地域や学力によって制限されるし、学ぶ内容も画一的だ。学ばないことの選択を保証せずには、学びの主体性というものを真に達成することはできない。一方では、とにかく学校で学ぶことを社会が強く要請している。小中学校と比べると選択の余地を残している高校でさえ、この有りようだ。学校教育というものが強く枠づけられている以上、そこでの学びが主体的になるとは考えにくい。

この矛盾している状況は、現行の学習指導要領に現れている。「主体的・対話的で深い学びの実現」という考え方が示されているのだが、ここでは「主体的な学び」を「学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる」ものであると定義づけている。「前向きさ」や「謙虚さ」が押し出されているだけで、自己決定の要素が抜け落ちている。そもそも学ぶことを自己決定できなければ、主体的な学びは達成できないと考える。学校教育を否定しているわけではない。学校教育の中で行われる活動全般に、主体的な学びであることを求めるような社会統制に無理があると思うのである。

発達についても慎重に考えるべきだ。発達段階の浅いものに、学ぶことを決めさせることなど、できはしない。判断の根拠となる土台があるからこそ、自律性が担保される。受動的な学びは、人間形成の上で必要不可欠なものだ。これを実現する社会的なシステムが学校であると思うから、そこに主体的な学びというのは相いれないと考えている。「主体的に学ぶことのできる人物の育成を目指す」ことが、学校教育の目的とするところであろう。

主体的な学びを促進するならば、統制が強くてはいけない。学ばないこと、必要に応じて繰り返し学び直せること、学ぼうと思ったタイミングですぐに学びの環境にもどれることなどを保証する、ゆるやかな統制の元でこそ、主体的な学びは促進されると思う。 一方で、このような統制は、理想であって実現が難いということも思うのである。人間の発達の問題や、現代社会の様相とは調和しにくい。

教員は、この点を充分理解して、教育に携わるべきだ。教員は、教室という社会のなかに君臨し、生徒に強く働きかける。主体性との矛盾性に気づかずに行われる教育活動は、主体性の育成とは真逆の結果につながり得る。規律を重んじる強い統制は、生徒から主体性を奪う。一方で、主体性を履き違えた「ユルい」統制は生徒の甘えを許して学びを奪い、結局、主体的な学びの育成とは異なる結果につながってしまう。

学びに向かう主体性は、学校教育の中で育まれるものであって、学校で教育を受けている生徒の学びそのものに求められるようなものでは無いと考える。生徒の主体的な学びを促進するためには、主体性が培われてゆく過程を長い目で見る寛容さを社会(国や地域)が持つことが必要であろう。そして、教員は、生徒に小手先の方法論で「主体的な学び」を引き出そうとせず、学ぶ楽しさや素晴らしさを感じられるような実践を実直にかさねることが肝心であると思う。

理科の中の算数について思う

 高校で理科を教えていると、算数の内容でのつまづきが原因で理科も共倒れになるという場面に合うことがしばしばある。それもそのはず。小学校算数はあたりまえに身についていることを前提に、中学校や高校の数学や理科が組み立てられている。特に、中学校以降の数学は数学的な概念の定着に重点を置く。算術を駆使する場が、数学ではなく理科になるのだ。

 「学びなおし」や「計算特訓」みたいな時間割を特設し、算術の訓練をしている学校もあるだろう。そんな学校ならいざ知らず、理科がそれをやらなければ生徒の算数の知識が呼び起される機会はない。なんとなく分かっている人も多い。でも、意識的に対策されているのか疑問だ。分かっていればまだましな方で、生徒の算数の知識が追い付いていないのに、遮二無二、理科を指導してしまう。それゆえに、理科が嫌いになる生徒も多いのではないだろうか。

 理科嫌いと言われるけれど、意外と生物や地学などは好かれている。物理・化学にピンポイントで苦手意識を持つ生徒が多いことの一因だろう。

 算数の中で、圧倒的につまづきがある内容が「はんぱ」と「割合」である。2つを組み合わせてた「分数」などもってのほか。それらをよけて、理科の授業を行うことも可能だろう。化学や物理であっても、うまくやれば避けられる。が、生徒にとって「理科の知識」と「算数の知識」とどちらが大切かと問うと、「算数」なのは認めざるを得ない。

 あまりこだわりすぎると、かえって生徒を苦手にしてしまう。十分に分かっていること。しかし、上手くやれば生徒の力を劇的に引き延ばすことができる、ということもまた分かっている。理科の教員として、実践から切り離すべきではない「量の概念」の指導について、小学校算数の指導要領を照らし合わせながら考えられないかなと、思索しているところだ。

 もしかすると、ことは理科で閉じていなくて、学校全体としての基礎学力保障の取り組みに関連付ける必要があるかもしれない。そこまで考えが至れば、何やら面白いことになるかもしれない。などと、皮算用。

一年の計2018

 1年の初めや終わりは人が勝手に決めたものだ。ある1日の重みが、年末年始と年の中頃とで異なるはずなどない。当たり前のことだ。当たり前すぎるからこそ、その重みを忘れがちになる。それが人情というものだ。わたしは本当に愚かしい。長期休みが終わって「日常」がはじまると、どうしても目先のことにとらわれてしまう。「日常」と表現しているあたりが、「重み」のくだりを述べつつ、真には理解できていないのだと思わされる。

 自分の愚かさを分かりつつ、すぐには改まらないのが私の限界であろう。何かきっかけがないと、自分を大きな流れの中でとらえることができない。あるいは、一部の天才をのぞいて、みなそうなのかもしれない。だからこそ、年末年始には節目となる行事があるのだなと、当たり前のことに気づかされる。人が勝手に決めた年初年末も、凡人にとっての「ケジメ」として必要なことなんだな。

 詳しくは知らないのだが、「ケジメ」の「ケ」は「ハレとケ」の「ケ」、つまり「日常」のことであろう。日々忙殺される中で弱まった「ケ」を、年末に「ケジメ」て、年始の「ハレ」の儀式で元に戻す。昔の人は、よく人間の真理を見抜いていたのだと思う。年の瀬に身内の不幸が重なったこともあって、一日の重さについていろいろと考えさせられる今日この頃である。

 分かったようなことをグダグダと述べるのは終わり。自分のことを少し考えておこうと思う。去年の反省を踏まえ、今年は次の3点を目標にする。

<今年の目標>
 1.自分の求める理科教育観を、不完全でもいいので言語化する
 2.論文の骨子となるような実践を、多少の無理をしても絶対に行う
 3.必要以上に学校の仕事に関わらない

 教員生活も「10年」という節目が見えてきた。3合目までは登り切ったのだ。言語化せよといわれると難しいのだが、自分の教育理念・教育観というものの輪郭が見えてきた。さまざまな人との話の中で分かったことだが、自分の教育理念・教育観というのは人には理解されない部分があるように思う。要は分かりにくいのだ。

 言語というのは強い。あいまいなものを言葉にしてしまうと、その言葉に振り回される恐れはある。しかしながら、新人期はとうに過ぎ、自分の教育観が語れないようではいけない。そろそろ、言葉を持ってもよい時期だ。好ましいことに、実践に関する論文を仕上げるという機会を与えられている。また、思考を整理するための言語化の場がここにある。もしかすると、自分がしようとしていることは、業界のタブーに当たるかもしれない。が、形にしてしまえばこちらのものである。研究に関わる部分は、多少ヒトの反感を買ったとしても、押し切りたいと思っている。

 あと、今年も、学校運営との距離感を保つように努めようと思う。幸い、今年も担任は外れる見通しだ。このようなチャンスがあとどれくらい与えられるかもわからない以上、いまこの瞬間に、自分のしたいことを推し進めなければいけないと思う。とすれば学校運営にかかわることはただの障害に過ぎない。一方で、自分自身に向けられた過度な期待をどのようにかわすのかも、考えておく必要があるように思う。学業がひと段落するときは、さまざまな条件が悪い方向に揃う時期でもある。バランス感覚を失わないようにしなければと思うのである。

 果たして今年はどのような1年になるのであろうか・・・。

一年の省2017

 勤務校も2年目。過度な期待も感じつつ、校内での自分の立ち位置がなんとなく見えてきた。3年が一区切りと言うのは世の定説。この2年間で見てきたさまざまなことをうまく取り込みつつ、自分の思いを形にする。来年は、そんな年にする必要があると感じている。この年始、次の3つの目標を決めた。どの程度達成できたのか。振り返りつつ、来年につなげようと思う。

<今年の目標>
 1.自分なりの理科教育の追及を続けること
 2.学生生活を踏まえた生活リズムを確立すること
 3.必要以上に学校の仕事に関わらないこと

3.必要以上に学校の仕事に関わらないこと
 学校経営、部活動、生徒支援、教科指導、キャリア指導・・・。教員としてどこに力点を置くのかは人それぞれだと思う。しかし、授業第一。教員が「教える」仕事である以上は、当然そうでなければならないと思う。が、担任や分掌長などをやっていると、授業のことは後回しになりがちだ。

 幸いと言うか、自分なりに立ち回った結果と言うか、2年目ながらもは担任も分掌長も外れた。変な役割を当てられたのだが。勤務校にある組織的な問題。述べることが莫大に膨れ上がるのでここでは立ち入らない。ただ、その問題に飲み込まれて、授業よりも学校の業務が優先になる時期もあったように思う。

 歳もあってなのか、持って生まれたものなのか、簡単に仕事をふられてしまう。「私」を見て仕事を振られているように思うのだ。であれば、日ごろの生活の中で、「私」の印象を変えてゆかなければならない。ある仕事を振られた瞬間の対応よりも、普段からのヒトとのかかわりが大切だと考える。

 その意味では、まだまだ十分ではないと感じることが多かった。「仕事をしない人間」になるつもりはないが、ヒトに足を引っ張らられることが無いようにしたいと思うので、まだまだ精進が足りない。

2.学生生活を踏まえた生活リズムを確立すること
 仕事と学業との両立が求められる一年だった。特に前期は厳しかった。週に2日コンスタントに学びに行った関係で、学業が仕事に食い込んでいたように思う。おかげもあって今年一年で研究以外の単位はほとんど揃った。しかし、「結果的にはよかったな」ぐらいのことである。あくまでも目標は、「無理なく」であったので、手放しで喜べるような結果ではなかった。

 来年度以降、学業の負担は小さくなる。そして、本格的に「研究」にシフトする。これまでは、講義に出席して一定の課題を達成すれば、単位は修得できた。比較的大変だと言われる演習科目ですら、ゴールは明確で、そこに向けて進めばよかった。研究ほどの大変さはないのだ。

研究では、自分で進め方をコントロールする必要がある。何もしなくたって日々は過ぎてゆくのだから。研究一本であれば一定の自信がある。しかし、仕事と並行するとなると、仕事と研究とのバランスに意識し、計画的に進行してゆく必要があるのだ。今年はその予行であるべきだったが、うまくいかなかった。

 仕事と学生生活の両立という意味では、全くと言っていいほどうまくいかない一年であった。 

1.自分なりの理科教育の追及を続けること
 勤務校も二年目となると、生徒の様子もある程度推測が付けられるようになったし、1年の見通しも立つようになった。だから、授業研究と言う意味ではおおむね満足のいく一年だったと思う。しかし、まだまだ、自分自身の技量が足りないので完璧とまでは言えない。

 来年はもっと頑張りたいと思っている。

【備忘録】pic16f88 ad変換プログラム

研究の過程で、アナログ回路の電圧をパソコンに取り込んで処理する必要が出てきた。大学で学んだことなどを総括すると、picというマイコンと、usb-ioというモジュールを組み合わせて実現できそうだ。picでAD変換を行い、信号をusb-ioでパソコンに取り込む。

さっそく両者を手に入れたが、公務優先ゆえに、手を付けられずにいた。

勤務校も冬休み。ようやく手を付けられるようになった。まずは、pic16f88のプログラミングに挑戦した。初めてのアセンブリ言語。なにから手を付けていいかわからないので、ネットにアップされていた7セグデジタル電圧計のプログラムを解析するところから始めた。1日がかりの作業で何とかプログラムを完成させたのだが、usb-ioと組み合わせて動作を確認してみたところうまくいかない。というか、usb-ioが思うように動かない。

usb-ioの挙動も調べつつ、picのプログラムと電子回路の改良によって、何とか思い通りの動きをするようになった。備忘録としてpicのプログラムを残しておく。

<vmeter.asm>

;—-ヘッダー——————————
LIST P=PIC16F88
INCLUDE __CONFIG _CONFIG1, _CP_OFF & _DEBUG_OFF & _CPD_OFF & _LVP_OFF & _BODEN_ON & _MCLR_OFF & _WDT_OFF & _INTRC_IO & _PWRTE_ON
__CONFIG _CONFIG2, _IESO_OFF & _FCMEN_OFF

;—-変数定義—————————-
COUNT EQU H’20’ ;ループカウンタ
TC EQU H’2D’ ;START内のループカウンタ

ORG 0
GOTO START

ORG 4
GOTO START

;—-STARTサブルーチン—-
START
CALL INIT

START1

CALL ADSTART ;AD変換

GOTO START1

;—-INITサブルーチン—-
; 入出力ピン初期化
;——————–
INIT
BCF INTCON, GIE ;INTCONの7ビット目を0に →割り込み禁止

BSF STATUS, RP0 ;STATUSのRP0ビット(6ビット目)を1に →Bank1へ切り替えた

MOVLW B’01010000′ ;2MHz 101
MOVWF OSCCON ;をOSCCONへ→クロック設定

MOVLW B’00000001′ ;(-,RB7, RB6, RA4, RA3, RA2,RA1,RA0)=(-,デ,デ,デ,デ,デ,デ,ア)
MOVWF ANSEL ;をANSELへ

MOVLW B’00000000′ ;RBx=0 出力モード
MOVWF TRISB ;をTRISBへ→ポートBを出力モードに

MOVLW B’00000001′ ;RA0=1 RA0入力 、RAx(x>0)=0 RAx 出力モード
MOVWF TRISA ;をTRISAへ→ポートAの0番を入力モードに

MOVLW B’00001110′ ;AD変換結果を右づめで格納
MOVWF ADCON1 ;をADCON1へ

BSF OPTION_REG, NOT_RBPU ;OPTION_REGの7ビット目を1に→RBプルアップ有効

BCF STATUS, RP0 ;STATUSのRP0ビット(6ビット目)を0に →Bank0へ切り替えた

MOVLW B’00000001′ ;変換クロック÷2(00)、変換チャンネルRA0(000)、まだ変換しない(0)、-、変換使用開始(1)
MOVWF ADCON0 ;をADCON0へ

RETURN

;—-ADSTARTサブルーチン—-
; AD変換データ取得サブルーチン
;————————-
ADSTART
CALL TIME
BSF ADCON0, GO
WAIT
BTFSC ADCON0, GO ;GO→AD変換中は1、終了していれば0でGOTOをスキップ
GOTO WAIT ;プログラムカウンタを減らしてループ

MOVF ADRESH, W ;上位データをWへ
MOVWF PORTB

BSF ADCON0, GO

RETURN

;—-遅延サブルーチン—-
TIME
MOVLW H’25’
MOVWF COUNT
NOP
LOOP
DECFSZ COUNT, F
GOTO LOOP

RETURN

END

いましめ。自分に。

案の定だ。

前回の更新からどれだけの日がたったのか。お金を払って構築したサイトをずっと放置してきた。更新しなければと思いながら。契約を更新するかどうかという問い合わせを見て、重い腰を上げることにした。もう1年だけ、とりあえずやってみようと思う。それでも活用しないようならば、あっさりと閉鎖しようと思うのである。

合理と平等と

 年度末にさしあたり、高校は入試の時期に突入する。学年末テストに進級・卒業判定会議にと、それだけでもあわただしいのに、入試業務がのしかかり、多忙を極める。目の前の生徒には申し訳ないのだけれど、普段の授業よりも、事務的な事柄に重きを置かざるを得ない。

 公平、公正、平等。われわれ教員は、何をもってそう言えるのかを、常に心にとどめておかねばならぬ。特に、この入試の時期においては、強く意識させられるのである。その君にとってプラスに作用しようがマイナスに作用しようが、ある受験生が、他の受験生と違う条件に置かれることは、避けねばならぬ。最も分かりやすいのが、採点の誤り。ただの「ミス」という意味ではない。ある受験生の解答だけが、違う基準で採点されることを、僕は「誤り」と呼んでいる。

 一点の違いが受験生の一生を大きく左右する、ということが、われわれの目の前すぐのところで起こりうるのである。入試問題の質や、採点のあり方については細心の注意を払う必要がある。そのことについても、書いておきたいことがあるのであるが、この記事では違う切り口のことを書こうと思う。

 「合理的配慮」という言葉がある。受験という狭い意味で言おう。様々なハードルを抱えた受験生が、あえてきつい言葉でいうところの「健常な」受験生と受験する上で、もともと不利な条件を埋めるための手立てを受けて受験している。受験時間を長く取ったり、一部配点を変えたりして受験したりしているのである。

 ある人は、「公正で」良いことだと思うだろうし、またある人は、「不公平で」悪いことだと思うだろう。僕自身はこのようなあり方に反対である。この場で自分の考えを述べないのはずるいと思うので、あえて批判されることを覚悟しながら言うた。というより、誰も見ていないと思うから言えるのであるが。

 主な反対の理由は、現場に過剰な負担がかかり公平性が保てなくなるから、ということである。入試の日、われわれ教員がおかれている状況に、世間の理解はあるのだろうか。

 別系統での受験においては、その受験生に対して人員・教室など特別の配慮が必要である。一方で、われわれが勤務する学校の環境は、そのような配慮がされる前提で組み立てられてはいない。であれば、教育委員会から特別の人員が配置されたり、場所が提供されたりするのかというと、そうではない。ただでも苦しいところを何とかやりくりして、捻出するのである。

 そうすると、委員会は「できるじゃないか」という。監督の教員が休みなく何時間もたちっぱなしになる体制のどこが、「できる」のであろうか。

 監督業務にあたっては、『全ての受験教室において、同時にテストが始められるように段取りを行う』『リスニングのときに、余計な音が響き渡らないように厳しく監視する』『受験に有利になるような持ち物の持ち込みがないかチェックする』など枚挙にいとまがないほど、配慮を要するのである。ただ「見てればよい」というような甘いものではない。その疲労は、経験したことのない人にはきっとわからないのであろう。

 そのうえ、入試当日は、監督業務以外にも仕事がある。主だったものは、「チェック」である。解答用紙の紛失はもってのほかだが、答案に事後不正が入らないように厳重に、かつ、採点の取り違えなどが起こらないように慎重に解答用紙は取り扱われる。採点に向けて、問題の分析や採点基準の作成も初めていなければ、合格発表には間に合わない。とにかく、入試という行事を普通に進行するだけでも、相当の負担なのである。

 公平・公正・平等のための厳重・慎重な作業。疲労は禁物であり、適度なゆとりが必要である。そのゆとりを、「特別」が奪う。結局、大きく考えると「特別」が公平・公正・平等に、支障をきたしているのである。2度目だが、教育委員会が言うところの「できている」のだろうか。

 「合理的配慮」とは、文字通り「合理的」であるべきである。できることはできる。できないことはできない。我々と、配慮を求める者とが話し合いをし、お互いに“無理なく”実行可能な落としどころを探って、それを配慮・実行するのが「合理的配慮」であろう。少なくとも僕が目の当たりにした「特別」に関するいくつかの事例に対しては、“無理なく”の部分が抜け落ちたかっこ付きの「(合理的)配慮」であったと感じている。

 その絶対数が増えたのか社会的認知が強まったのかは知らないが、「合理的配慮」を求められる場面が多くなっている。我々も考えなければならぬ。しかし、我々がぎりぎりの線で負担するような「(合理的)配慮」にはならないよう、もう少し皆さんにもご理解いただきたいことであるとおもう。

目標をもって行動するということ

 組合の新聞の、評価育成システムへの批判の記事について思う。

 過去、自己申告票や管理職の勤務評価を総合的に判断して、給与に差のつくシステムになっていることがあった。今は、評価が良い意味でも悪い意味でもとびぬけていない限り、給与には影響しないという。であるならば、自己申告票などただの紙切れである。しかし、それは廃止しろという意味ではない。

 確かに、生徒の授業アンケートについては、あり方を問い直すべきであると思う。たとえば、宿題を出したことのない授業であっても、生徒との関係がうまくいっていれば(まあ、往々にして、なれ合いなのだが・・・)「課題の量が適切である」という項目の評価が高いとかいうことがざらにある。要は、生徒との関係の良好さを図るだけであって、各項目の内容がそれほど正確に評価されているとは思えないのである。

 生徒は客観的にものが判断できるほど大人ではない。あるクラブの部員は、強制されているのか自発的か、顧問のアンケートをすべて最高の評価にする。あるクラスでは、あの先生をはめてやろうという声が生徒から出て、意図的にその先生の評価が低くつけれれている。こんな話ももまた、ざら、である。これが「生徒」の実体なのだから。このようにしてつけられたアンケートの結果の、どこを参考にすればよいのであろうか。

 しかし、授業改善の一環として、生徒の声を聞く機会は必要だ。ただ、いまよりも客観的な結果を得られるようなシステムに改善しなければならぬと思うのである。どうすればよいのか、自分自身、正解を得ているわけではないのであるが、感触を得ている方法はある。「自分の授業改善のために、正しく書いてほしい」という思いを、生徒にぶつけたうえで、教科担当各自が授業の中でアンケートを取る。手厳しい意見も見なければならなくなるが、であるがゆえに、客観的であると思うのである。

 目標をもって行動し、その結果を振り返って、つぎの行動にフィードバックするという一連の改善行動は、それをPDCAサイクルなどと仰々しく言わずとも、大切なことであると思う。そうでなければ、成長のない、あるいは、成長したとしても伸び幅の小さい、教員人生となってしまうだろう。そういう教員集団を抱えることは、学校にとってもマイナスである。要は、その時その時の瞬間値を給与に反映させるという考え方が問題なのである。

 他人に、自分の意見を押し付けようとは思わぬ。少なくとも僕自身は、常に目標に向けて進む、前向きな人間でありたい。そして、それに口をはさんで足を引っ張ろうとする人種を軽蔑する。

人との関わりの中で、良く仕事をするということ

 最近思う。良く仕事を進めるためにはどうすればよいのかと。

 自分で100点満点だったと思える仕事など、1度もできなかった。「先生、〇〇についてどうしたらいいでしょうか」いつも、何かにつまづき、誰かに助けを請うてきた。明らかにめんどくさそうに対応されることもあったし、叱責されることもあったと思う。だけど、いつでも味方を得て、それなりの着地点へと話が収まってきた。

 いま、目の前にそうならない人がいる。「僕だったらこうする」 話を聞いていて、意見をいうこともある。僕の意見通りにされることもあれば、また別なことをされることもある。要は、話を聞いてほしい、ということだろう。それはそれで構わない。だけど、「なんでそれでうまくいかないのか」という方向に話が進むことが多いのである。

 そんな顛末を傍観していると、仕事の進め方について深く考えさせられる。なにが、彼女をこのような状況に追い込むのであろうと。最近、耳にしたのだが、彼女の評価が、彼女に関りのある部署では、ことごとく低いのだそうだ。何となくわかる気がする。彼女の言動を見ていると、自信家そのものなのである。しかし、自己評価がたいへん低いと見える。はったりが効かないのに、自分を過剰に大きく見せようとする、とでも言おうか。

 大風呂敷を引くだけなら「言わせておけ」で済む。が、火の粉が飛んでくる、とでも言おうか。彼女と一緒に仕事をすると、彼女のスタンスに振り回され、損させられる。少なくとも、僕の考え方とはまるで違うのである。彼女と僕とのスタンスの違いが分かりやすいエピソードがある。

 僕の授業での一コマ。

 テスト前の自習の授業での出来事。生徒がいつまでも隣の子と話をやめないので、席を変われと指示を出した。その生徒もすっと席を変わればよいものを、意固地になって変わらない。元からざわついた授業だったので、私語を完全に収めることなど考えておらず、当該生徒が席を動きさえすればそれで矛を収めるつもりであった。

 しかし、一向に動かない。「なぜ自分だけが」という思いもあったのであろう。結局その授業の最後まで指示に従わなかった。仕方なく、当該生徒を生活指導室へと連れてゆき、指導をしてもらうという判断をせざるを得なくなった。

 生活指導の先生は大変である。僕が、もう少しうまくことを収められていれば、その生徒の指導をしなくてもよかったのであろうに。言い過ぎかもしれないが、僕は僕の仕事を完遂できなかったため、生活指導の先生に「投げた」のである。だから、指導に当たってくださった方に、僕は心から「ありがとうございます、お世話になりました」と伝えた。

 問題はそこからである。

 どういう経緯でそうなったのかは忘れてしまったが、僕が生活指導の先生に「ありがとう」を伝えたことを問題の彼女が聞き「なんで感謝する必要があるのか」と僕に言った。生活指導の先生は生徒を指導するのが当たり前の職務なので、世話になっても感謝をする必要などないというのである。ある意味で、新鮮な言葉であった。

 これが、定年間近の人間であれば話は違うのかもしれない。そうであったとしても、礼儀と謙虚さを忘れる人間を、僕は認めたくないのであるが。しかし、そもそも、僕と歳も近く、職場ではまだ若いほうの彼女が「仕事はしてもらって当たり前」という姿勢でことに当たる。まっとうであったとしても、そういう言動で当たられた方は心外であろう。

 彼女は、そういう風に考えられないのである。それはそれで一貫しておればよいのであるが、彼女自身がほかのだれかに同じようにされたときには、腹を立てているのである。ひょっとすると、やり返されているのではないかと思うことさえある。僕自身も彼女に対して、不満に感じる部分が多い。2度と深く仕事では関わりたくないとさえ感じる。

 たいへん厳しいことを言わせてもらえば、視野が狭すぎる。齢30にもなってこれでは、周りに敵を多く作るはずである。

 僕のスタンスは「謙虚であること」慇懃無礼に思われる部分もあるであろうが、「何かをしてもらう」という姿勢を崩さない。そして、仕事に対しては、謙虚に少し多めに頑張る。損することも多いのであるが、何かが起きたとき必ず誰かがサポートしてくださる。

 初めから「完璧であること」を放棄し、そのための保険として普段いい顔をするというやり方が、正しいのかどうか分からない。実際、なめられているのではないかと感じることもあって、度が過ぎたときには文句を言わねばならんという辛さを伴う。ただ、しかしである。少なくとも、彼女よりはうまく物事が回っている。

 今年、年齢の10のケタが変わる。他の1年と大して違いないはずであるが、節目であるという気持ちが強い。分相応に考え方を改めてゆかねばならないのであるが、一方で、謙虚さを忘れたくはない。いろいろな方と接してきたが、「この人と仕事がしたい」「この人についてゆきたい」と思った人はみな、実直・誠実で、どこかに謙虚さを持っていらっしゃった。そして、そのような方々はみな、周囲をひきつけ、うまく仕事を回していたように思うのである。

 いろいろと、彼女に意見をしてきたが、本当に伝えたいのは、「もう少し感謝をしなさい」ということと「みんなに見えるところで仕事をしなさい」ということである。いつでも「自分は未熟である」という姿勢の表れが「感謝」。そして、「一緒に仕事を頑張りましょう」という姿勢の表れが「ともに仕事をすること」。

 謙虚さから抽出した、「感謝」と「前向きさ」。この2点が、仕事をよく進めるうえで大切なことではないか。今年30の節目に、同僚の言動を見ながら感じたことを、ぐだぐだと述べてみた。

 それにしても、僕は、人付き合いが大変苦手なのであるが、彼女は、もっと苦手なのであろうなと、思いを馳せながら、今日この記事を書いている。

一年の計2017

せっかく作ったウェブサイト。活用しないともったいない。ちょうど新年なので、今年の目標を一つ。

転勤1年目。担任や重要な役職は免れた。が、下働きは多かった。授業だって5種類16単位も持った。

今年から初めて開設される学校設定科目。今まで一度も教えたことなく、しかも専門外である地学。二時間連続の化学が学年違いの2種類。

決して楽とは言えない幕開けだった。だけど、それはきっと序の口なんだろう。この授業数はそのままに、役職や担任が回ってくる。

前任校の自分なら、よくわからんうちに笑って引き受けた。

「今年はそうはさせない」主張すべきことは主張しつつ、適切に仕事を引き受ける。なぜなら、現任校はあくまで現任校。

自分の教員としての目標は「自分なりの理科教育をつきつめる」こと。ここで必要以上に頑張っても達成できない。だから、思い切って学生やることにした。

働きながらの学問はしんどいと思う。しかし、若いうちでないとできないことだ。だから、今年行動に移す。

以上を踏まえ、今年の目標をまとめておこう。

 1.自分なりの理科教育の追及を続けること
 2.学生生活を踏まえた生活リズムを確立すること
 3.必要以上に学校の仕事に関わらないこと

がんばるぞ。