月別アーカイブ: 2017年3月

合理と平等と

年度末にさしあたり、高校は入試の時期に突入する。学年末テストに進級・卒業判定会議にと、それだけでもあわただしいのに、入試業務がのしかかり、多忙を極める。目の前の生徒には申し訳ないのだけれど、普段の授業よりも、事務的な事柄に重きを置かざるを得ない。

公平、公正、平等。われわれ教員は、何をもってそう言えるのかを、常に心にとどめておかねばならぬ。特に、この入試の時期においては、強く意識させられるのである。その君にとってプラスに作用しようがマイナスに作用しようが、ある受験生が、他の受験生と違う条件に置かれることは、避けねばならぬ。最も分かりやすいのが、採点の誤り。ただの「ミス」という意味ではない。ある受験生の解答だけが、違う基準で採点されることを、僕は「誤り」と呼んでいる。

一点の違いが受験生の一生を大きく左右する、ということが、われわれの目の前すぐのところで起こりうるのである。入試問題の質や、採点のあり方については細心の注意を払う必要がある。そのことについても、書いておきたいことがあるのであるが、この記事では違う切り口のことを書こうと思う。

「合理的配慮」という言葉がある。受験という狭い意味で言おう。様々なハードルを抱えた受験生が、あえてきつい言葉でいうところの「健常な」受験生と受験する上で、もともと不利な条件を埋めるための手立てを受けて受験している。受験時間を長く取ったり、一部配点を変えたりして受験したりしているのである。

ある人は、「公正で」良いことだと思うだろうし、またある人は、「不公平で」悪いことだと思うだろう。僕自身はこのようなあり方に反対である。この場で自分の考えを述べないのはずるいと思うので、あえて批判されることを覚悟しながら言うた。というより、誰も見ていないと思うから言えるのであるが。

主な反対の理由は、現場に過剰な負担がかかり公平性が保てなくなるから、ということである。入試の日、われわれ教員がおかれている状況に、世間の理解はあるのだろうか。

別系統での受験においては、その受験生に対して人員・教室など特別の配慮が必要である。一方で、われわれが勤務する学校の環境は、そのような配慮がされる前提で組み立てられてはいない。であれば、教育委員会から特別の人員が配置されたり、場所が提供されたりするのかというと、そうではない。ただでも苦しいところを何とかやりくりして、捻出するのである。

そうすると、委員会は「できるじゃないか」という。監督の教員が休みなく何時間もたちっぱなしになる体制のどこが、「できる」のであろうか。

監督業務にあたっては、『全ての受験教室において、同時にテストが始められるように段取りを行う』『リスニングのときに、余計な音が響き渡らないように厳しく監視する』『受験に有利になるような持ち物の持ち込みがないかチェックする』など枚挙にいとまがないほど、配慮を要するのである。ただ「見てればよい」というような甘いものではない。その疲労は、経験したことのない人にはきっとわからないのであろう。

そのうえ、入試当日は、監督業務以外にも仕事がある。主だったものは、「チェック」である。解答用紙の紛失はもってのほかだが、答案に事後不正が入らないように厳重に、かつ、採点の取り違えなどが起こらないように慎重に解答用紙は取り扱われる。採点に向けて、問題の分析や採点基準の作成も初めていなければ、合格発表には間に合わない。とにかく、入試という行事を普通に進行するだけでも、相当の負担なのである。

公平・公正・平等のための厳重・慎重な作業。疲労は禁物であり、適度なゆとりが必要である。そのゆとりを、「特別」が奪う。結局、大きく考えると「特別」が公平・公正・平等に、支障をきたしているのである。2度目だが、教育委員会が言うところの「できている」のだろうか。

「合理的配慮」とは、文字通り「合理的」であるべきである。できることはできる。できないことはできない。我々と、配慮を求める者とが話し合いをし、お互いに“無理なく”実行可能な落としどころを探って、それを配慮・実行するのが「合理的配慮」であろう。少なくとも僕が目の当たりにした「特別」に関するいくつかの事例に対しては、“無理なく”の部分が抜け落ちたかっこ付きの「(合理的)配慮」であったと感じている。

その絶対数が増えたのか社会的認知が強まったのかは知らないが、「合理的配慮」を求められる場面が多くなっている。我々も考えなければならぬ。しかし、我々がぎりぎりの線で負担するような「(合理的)配慮」にはならないよう、もう少し皆さんにもご理解いただきたいことであるとおもう。