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学校教育と、生徒が学びに向かう主体性について

「主体的」という言葉を「自発的」「積極的」というのと同等に見る考えもあるだろう。しかし、少なくとも私は、それらに「自律的」という意味を加えたものが「主体的」である、と考えている。学びに積極的であるとか、自発的に学んでいること以上に、自分で学ぶことを決めている状態をもって、主体的に学んでいると見たい。

そもそも教育や学びとは、本質的に受動的なものであるということと、理解している。個人が、社会に適応し、その社会の発展的な継続に寄与できるようになることを社会は要請する。そのために施されるのが教育であり、そこで個人が見せる様態が学びである。ゆえに、個人は社会から学ばさせられている、と見ることができる。

狩猟によって生計を立てている家族集団という単純なモデルであったとしても、このことは言える。親から子への狩りの方法の伝達は、真に迫ったものであって、子の学びは能動的なものであろう。一方では、その伝達は、集団が継続するために行われていると考えることができるので、受動的なものである。

実際の社会はもっと複雑なモデルと見るべきだ。そこで繰り広げられる学びの形も多岐に渡る。学びの受動性の問題は、その全てにわたって潜んでいると考えている。たとえば、自動車学校やダンススクールでの学びは一見主体的だが、自動車が無ければ暮らせない、とか、文化的な活動を行うことに価値を付与する、とかいった社会の状況に「させられている」という性格を取り除くことはできない。

学びの持つ本質的な受動性が意識されていなければ、主体的な学びであるとは思わない。あるいは、「その性質を除いて」というカッコ書きを付けて学びの主体性を論じるのにも違和感がある。これでは、学習者がその真実に気づいたときに、学びの主体性は破綻し、それまでの自分の学びは主体的であったのか、という病質的な問いに苛まれる恐れがある。

私は、むしろ、主体的な学びという言葉の矛盾を直視しながらも、先に述べたように自発・積極・自律的に学んでいる状態を、真に主体的な学びであると考えることで、安定を得たいと考えている。

学びの主体性を論じるとき、このような複雑な問題が立ちはだかってしまう。発達の問題もあって、個人に施される教育の全ての局面が、主体的な学びであることを規定するような統制は、それを打ち立てた段階から無理をきたしている。公教育においては、とくに言えることである。本来は保護者に対する義務であるとはいえ、教育を施されることが義務と見られ得る義務教育は、それ自身がすでに主体性という言葉と矛盾している。私が携わる高等学校での教育も、大学全入と言われる現在においては、義務教育と同じになりつつある。

高校に通わないという選択を社会は容認せず、高校に進学することはほとんど決められているに等しい。また、通うことのできる学校は地域や学力によって制限されるし、学ぶ内容も画一的だ。学ばないことの選択を保証せずには、学びの主体性というものを真に達成することはできない。一方では、とにかく学校で学ぶことを社会が強く要請している。小中学校と比べると選択の余地を残している高校でさえ、この有りようだ。学校教育というものが強く枠づけられている以上、そこでの学びが主体的になるとは考えにくい。

この矛盾している状況は、現行の学習指導要領に現れている。「主体的・対話的で深い学びの実現」という考え方が示されているのだが、ここでは「主体的な学び」を「学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる」ものであると定義づけている。「前向きさ」や「謙虚さ」が押し出されているだけで、自己決定の要素が抜け落ちている。そもそも学ぶことを自己決定できなければ、主体的な学びは達成できないと考える。学校教育を否定しているわけではない。学校教育の中で行われる活動全般に、主体的な学びであることを求めるような社会統制に無理があると思うのである。

発達についても慎重に考えるべきだ。発達段階の浅いものに、学ぶことを決めさせることなど、できはしない。判断の根拠となる土台があるからこそ、自律性が担保される。受動的な学びは、人間形成の上で必要不可欠なものだ。これを実現する社会的なシステムが学校であると思うから、そこに主体的な学びというのは相いれないと考えている。「主体的に学ぶことのできる人物の育成を目指す」ことが、学校教育の目的とするところであろう。

主体的な学びを促進するならば、統制が強くてはいけない。学ばないこと、必要に応じて繰り返し学び直せること、学ぼうと思ったタイミングですぐに学びの環境にもどれることなどを保証する、ゆるやかな統制の元でこそ、主体的な学びは促進されると思う。 一方で、このような統制は、理想であって実現が難いということも思うのである。人間の発達の問題や、現代社会の様相とは調和しにくい。

教員は、この点を充分理解して、教育に携わるべきだ。教員は、教室という社会のなかに君臨し、生徒に強く働きかける。主体性との矛盾性に気づかずに行われる教育活動は、主体性の育成とは真逆の結果につながり得る。規律を重んじる強い統制は、生徒から主体性を奪う。一方で、主体性を履き違えた「ユルい」統制は生徒の甘えを許して学びを奪い、結局、主体的な学びの育成とは異なる結果につながってしまう。

学びに向かう主体性は、学校教育の中で育まれるものであって、学校で教育を受けている生徒の学びそのものに求められるようなものでは無いと考える。生徒の主体的な学びを促進するためには、主体性が培われてゆく過程を長い目で見る寛容さを社会(国や地域)が持つことが必要であろう。そして、教員は、生徒に小手先の方法論で「主体的な学び」を引き出そうとせず、学ぶ楽しさや素晴らしさを感じられるような実践を実直にかさねることが肝心であると思う。