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岸田秀「子どもとは何か」を読んで

 「子ども」という概念が「発見されたもの」であるということは、なんとなく知っていた。しかし、未開人や精神病患者などと同じく「異質なものとして発見された」という表現の過激さに衝撃を受けた。理性人という存在はただの理想であって実現しないものだということを暗に述べ、自分たちこそが理性人であるとの近代ヨーロッパ人の主張を妄想と切って捨てるくだりは、爽快に感じた。
 狂気、無教養、無邪気といった概念を作り出し、それらを治療・開発・教育する対象として見なす。そして、自分たちはその対極にあるものとして優位に立とうとする。このような人間の精神性は良く理解できる。かく言う私自身も含め、そのような精神性を改めきれないところを見ると、ポストモダンとはよく言ったものだなと皮肉に感じる。
 私たちは、ものごとを二項対立で見がちだ。「正常/異常」「文明/未開」「おとな/こども」「善/悪」などという軸を持つということは、シンプルで分かりやすい。しかし、危ういことでもあると思う。どちらが優位か、ということは分類した者が勝手に決めている。また、線のどちらに入れてよいのか分かりにくい曖昧なものは必ず存在する。そんなことからは目をそむけ、ものごとを「1か0か」式に割り切って考えようとする。「現代人」が持っているビョーキだと思う。
 私たち教員はこのビョーキをよく体現していると思う。極端に言うと、教育というものは良い行い/悪い行いを分類するところから始まると思うからだ。昨今世間を騒がせている、髪の毛の色問題などは、この良い例ではないか。同じ髪の毛の色であっても、その色に至った経緯は個別に違うはずなのだ。染髪が悪だとするならば、地毛は善である。また、染髪も、地毛の色が原因でいじめられた経験からやむを得ずのことであれば、それを悪と決めつけ得るのか。などということを、資料から考えた。
 生徒の指導場面で、生徒の背景まで考えることはより丁寧であると思う。しかし、そもそも学校がビョーキを体現した入れ物である以上、その入れ物の中で活動しているがゆえの限界があると思う。

異動

前任校で、ビックリするような縁があった。転勤初日、新着任者はひとつの部屋に集められる。少し気が急いたのか、一番乗り。こんな日に一番になったところでやることも無いのに。暇なので、文庫を読んでいると、知った顔が。前々任校の前の校長だった。校長として停年を向かえられたその方は、とある大学の入試関連のポストを得られて、そちらで余生を過ごされていた。前々任校では1度、大学職員としてお見かけしたことがある。

すごいインパクトのある方だった。校長ともあろうお方が、生徒の中に入り込み、生徒に受け入れられる姿は異様だった。やり方は旧態依然そのもので、これで上手くいくのかと疑問だった。しかし、疑問はすぐに吹っ飛ぶ。生徒の懐に潜り込み、そして、いつの間にやら自分の懐に取り込む。ごく一部の困難な生徒は、生指部ではなく校長が手懐けていた。

さすが体育教師という感じで、力強くて清らかな言葉を持たれていた。僕の心の中にも、いくつか印象深く刻まれている言葉がある。その中の一つが、異動に対する考え方を教えてくださったときのものだ。

自分が学校にいることが、自分にとっても学校にとってもマイナスになっとき、異動を考えたらいい

確かにその通りだと思う。学校と教員との関わりを考えた時、ともにマイナスの関係でしかないのなら、教員は静かに引くしかない。公務員という性質上、次の地は約束されているのだから。

しかし、考えてみる必要があると思うのは、何を以てマイナスと判断するかという点だ。

「学校にとって」教員がマイナスの存在となるということは、随分考えやすい。その教員の存在が学校にとってお荷物にしかならなくなったとき、それは学校にとってマイナスなのだと思う。

例えば、なれ合いに陥り何の生産的活動もしなくなった教員は「コマとして学校を回す」という点でギリギリプラスの存在だ。生産的活動はせずとも、与えられた仕事を最低限度こなしているのであれば。

与えられた仕事をせず、それを他者がカバーするようになったとき、学校にとってゼロないしマイナスの存在になる。

学校の仕事は多岐にわたる。ヒラ教員からは一見なにもしていないようで、実は学校運営に携わる重要な仕事をしているかもしれない。はたまた、発展途上で、現状は仕事を遂行する能力が不足していて、他者がカバーせざるを得ないのかもしれない。

両者ともに学校にとってマイナスの存在とは言えまい。それが客観的には見極めにくいところが学校という組織の難しさである。そこを大局的視点で判断するのが管理職のマネジメントというものであろう。

逆に「教員にとって」学校がマイナスの存在となるということは、どういうことだろうか。

教員としての学校の日々は勉強の連続だ。教員が触れるヒト・モノ・コトは実に多種多様であって、必ずどこかには未知の要素が隠れている。一番わかりやすいのが対生徒・対保護者の場面だ。その主義主張にはある程度のパターンはあっても、前例とすべて同じということは、まずもってあり得ない。

未知のモノに立ち向かうには、大変なエネルギーを要する。経験がないうちは知らないことが多すぎて疲弊の日々を送るといっても過言ではないだろう。しかし、その日々は決して無駄ではなく、教員としての糧となって以降の実践に生かされる。成長するのだ。

経験が深まれば対処もうまくなる。一方で、省エネルギーを考え過ぎてしまう。これでは、成長はない。

教員が「勤務校で今後学ぶことはないであろう」という偏見に陥ってしまったり、マンネリを打開しさらなる成長を求めるようになったとき、教員にとって、学校がマイナスになるのであろう。

僕は、前任校がとても嫌いだった。学校が「組織」である以上、そこにはいろいろな人がいて、いろいろな考え方が混在する。その端々までが、自分の考え方と合うとは思わない。その意味では、完璧なまでに好きになれるところなど、存在し得ないと思う。どこに行っても嫌だ嫌だと言っている気がする。

しかし、それが嫌なことからの逃避なのか、そもそも自分にとってマイナスでしかない環境なのか見極めきれなかった。

ただ、新校舎の建て替えにともなってほとほと嫌気がさすことがあり、かつ、それが原因でいわれのない責任を負うリスクがあったので異動を待たず、強引に飛び出してしまった。

飛び出した先でもうまくいかなかったことを考えると、先の校長の弁をちゃんと聞くことができなかった性急さに反省させられる。しかしながら、飛び出さざるを得なかった不遇にやり場のない怒りを感じているし、飛び出すという判断に後悔はないことをいつでも確認できている。

願わくば次の職場では、飛び出さざるを得なくなるほど不遇には見舞われないように祈るばかりである。そして、一刻も早く安定した身分に落ち着けるように日々努力を重ねるのだと決意する。

見通し

職場のある先生と、職場全体の風潮のことや、見通しをもって仕事をすることとはいかなることか、という話をする機会があった。「ある言動によって起こる可能性のあることを予測して、それに応じて行動するのが、見通しを持つことだと思うがどうか。」と、その先生に教えられた。
そのような話をして下さるということは、少なくとも私は見通しを持った行動ができている人物のひとりとして認めて下さっているということで、大変にありがたいことだ。しかし、自分が、そんな高度なことを、ひとつひとつの事柄に対してやっているのかと言うと、はなはだ疑問ではあるのだが。
自らに降りかかる危機を回避するため、とか、相手の立場に立って気持ちよく仕事をすすめるため、とか、動機はいろいろあると思う。ただ、なにか人になにかをお願いするときに、そのお願いをされた人がどう感じるのか。それは考えて仕事をするかな、とは思う。
職場の空気はメンバーによって大きく変わる。前の職場はお年を召した方が多かったので、ゆったりとした空気が流れ、おおらかであったような気がする。仕事は若いもんがやればいいという、なんともおかしな風習もあったが。
今の職場はまた違った空気である。なにかピリピリしていて、みなに余裕が無い。かと言って、仕事をしているようにも見えない。メンバーのキャパシティが小さいのだろうか。それだけではなく、いわゆる、御大という立場の人がすごくうるさくて、そして、その考え方に組織として動きという観点がない。みんな思考停止に陥っているのか、もともとそういう人たちの集まりなのか、よく分からないのだけれど、よく考えて仕事をしたり振り分けたりするという習慣がない。なんでこの人がこの仕事に携わっているのか、とか、この人はいまどんな状況におかれているのか、とか、この先どういう風に物事が展開してゆくのだろうか、とか、考えて行動することは、しない。
我々が携わっている仕事は、リアルタイムに変化する。前例主義ではうまく進まない部分が、他の職と比べると多いと思う。しかしながら、一つ一つの仕事の規模が大きいから、過去の例をたたき台にしてものを考えないと、そう簡単には仕事を組み立てられないのもまた、事実である。長く居る人にとって、ルールは不文律にしてしまった方が得である。新参者には、過去どうだったかなど知る由もない。多少変だと思っても、うちはこうだから、と言われてしまっては、返す言葉がない。ベテラン必勝である。決して、勝負事では無いはずなのだが。
ベテランにはストックがある。存在しているだけで、新参者よりも有利なはずだ。ならば、新参者を育成するためにどうすれば良いか、という、大きな見通しを立てて行動すべきなのである。意識してか無意識か、既得権益を守ることだけに執心するベテランのせいで、新参者は良く考えることができなくなる。本当に良いものを組み立てていたとしても、不文律で動いているので、ベテランの根拠の無い意見で潰されてしまう。この積み重ねによって、新参者は考えなくなる。考えても無駄だと思えてしまうから。そして、新参者もまた、見通すことのできない人物にしあがってゆく。
業務の全体量が膨大なのは事実である。しかしながら、その振り分けを適切に行うことで、もう少し一人一人の負担感は抑えられるはずである。そのような大きな見通しがベテランや管理職にないことが、この職場の空気が良くならない一番の原因であると思う。そして、そのせいで、新参者も見通しを持たない人物になると思うのである。

学校教育と、生徒が学びに向かう主体性について

「主体的」という言葉を「自発的」「積極的」というのと同等に見る考えもあるだろう。しかし、少なくとも私は、それらに「自律的」という意味を加えたものが「主体的」である、と考えている。学びに積極的であるとか、自発的に学んでいること以上に、自分で学ぶことを決めている状態をもって、主体的に学んでいると見たい。

そもそも教育や学びとは、本質的に受動的なものであるということと、理解している。個人が、社会に適応し、その社会の発展的な継続に寄与できるようになることを社会は要請する。そのために施されるのが教育であり、そこで個人が見せる様態が学びである。ゆえに、個人は社会から学ばさせられている、と見ることができる。

狩猟によって生計を立てている家族集団という単純なモデルであったとしても、このことは言える。親から子への狩りの方法の伝達は、真に迫ったものであって、子の学びは能動的なものであろう。一方では、その伝達は、集団が継続するために行われていると考えることができるので、受動的なものである。

実際の社会はもっと複雑なモデルと見るべきだ。そこで繰り広げられる学びの形も多岐に渡る。学びの受動性の問題は、その全てにわたって潜んでいると考えている。たとえば、自動車学校やダンススクールでの学びは一見主体的だが、自動車が無ければ暮らせない、とか、文化的な活動を行うことに価値を付与する、とかいった社会の状況に「させられている」という性格を取り除くことはできない。

学びの持つ本質的な受動性が意識されていなければ、主体的な学びであるとは思わない。あるいは、「その性質を除いて」というカッコ書きを付けて学びの主体性を論じるのにも違和感がある。これでは、学習者がその真実に気づいたときに、学びの主体性は破綻し、それまでの自分の学びは主体的であったのか、という病質的な問いに苛まれる恐れがある。

私は、むしろ、主体的な学びという言葉の矛盾を直視しながらも、先に述べたように自発・積極・自律的に学んでいる状態を、真に主体的な学びであると考えることで、安定を得たいと考えている。

学びの主体性を論じるとき、このような複雑な問題が立ちはだかってしまう。発達の問題もあって、個人に施される教育の全ての局面が、主体的な学びであることを規定するような統制は、それを打ち立てた段階から無理をきたしている。公教育においては、とくに言えることである。本来は保護者に対する義務であるとはいえ、教育を施されることが義務と見られ得る義務教育は、それ自身がすでに主体性という言葉と矛盾している。私が携わる高等学校での教育も、大学全入と言われる現在においては、義務教育と同じになりつつある。

高校に通わないという選択を社会は容認せず、高校に進学することはほとんど決められているに等しい。また、通うことのできる学校は地域や学力によって制限されるし、学ぶ内容も画一的だ。学ばないことの選択を保証せずには、学びの主体性というものを真に達成することはできない。一方では、とにかく学校で学ぶことを社会が強く要請している。小中学校と比べると選択の余地を残している高校でさえ、この有りようだ。学校教育というものが強く枠づけられている以上、そこでの学びが主体的になるとは考えにくい。

この矛盾している状況は、現行の学習指導要領に現れている。「主体的・対話的で深い学びの実現」という考え方が示されているのだが、ここでは「主体的な学び」を「学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる」ものであると定義づけている。「前向きさ」や「謙虚さ」が押し出されているだけで、自己決定の要素が抜け落ちている。そもそも学ぶことを自己決定できなければ、主体的な学びは達成できないと考える。学校教育を否定しているわけではない。学校教育の中で行われる活動全般に、主体的な学びであることを求めるような社会統制に無理があると思うのである。

発達についても慎重に考えるべきだ。発達段階の浅いものに、学ぶことを決めさせることなど、できはしない。判断の根拠となる土台があるからこそ、自律性が担保される。受動的な学びは、人間形成の上で必要不可欠なものだ。これを実現する社会的なシステムが学校であると思うから、そこに主体的な学びというのは相いれないと考えている。「主体的に学ぶことのできる人物の育成を目指す」ことが、学校教育の目的とするところであろう。

主体的な学びを促進するならば、統制が強くてはいけない。学ばないこと、必要に応じて繰り返し学び直せること、学ぼうと思ったタイミングですぐに学びの環境にもどれることなどを保証する、ゆるやかな統制の元でこそ、主体的な学びは促進されると思う。 一方で、このような統制は、理想であって実現が難いということも思うのである。人間の発達の問題や、現代社会の様相とは調和しにくい。

教員は、この点を充分理解して、教育に携わるべきだ。教員は、教室という社会のなかに君臨し、生徒に強く働きかける。主体性との矛盾性に気づかずに行われる教育活動は、主体性の育成とは真逆の結果につながり得る。規律を重んじる強い統制は、生徒から主体性を奪う。一方で、主体性を履き違えた「ユルい」統制は生徒の甘えを許して学びを奪い、結局、主体的な学びの育成とは異なる結果につながってしまう。

学びに向かう主体性は、学校教育の中で育まれるものであって、学校で教育を受けている生徒の学びそのものに求められるようなものでは無いと考える。生徒の主体的な学びを促進するためには、主体性が培われてゆく過程を長い目で見る寛容さを社会(国や地域)が持つことが必要であろう。そして、教員は、生徒に小手先の方法論で「主体的な学び」を引き出そうとせず、学ぶ楽しさや素晴らしさを感じられるような実践を実直にかさねることが肝心であると思う。

合理と平等と

年度末にさしあたり、高校は入試の時期に突入する。学年末テストに進級・卒業判定会議にと、それだけでもあわただしいのに、入試業務がのしかかり、多忙を極める。目の前の生徒には申し訳ないのだけれど、普段の授業よりも、事務的な事柄に重きを置かざるを得ない。

公平、公正、平等。われわれ教員は、何をもってそう言えるのかを、常に心にとどめておかねばならぬ。特に、この入試の時期においては、強く意識させられるのである。その君にとってプラスに作用しようがマイナスに作用しようが、ある受験生が、他の受験生と違う条件に置かれることは、避けねばならぬ。最も分かりやすいのが、採点の誤り。ただの「ミス」という意味ではない。ある受験生の解答だけが、違う基準で採点されることを、僕は「誤り」と呼んでいる。

一点の違いが受験生の一生を大きく左右する、ということが、われわれの目の前すぐのところで起こりうるのである。入試問題の質や、採点のあり方については細心の注意を払う必要がある。そのことについても、書いておきたいことがあるのであるが、この記事では違う切り口のことを書こうと思う。

「合理的配慮」という言葉がある。受験という狭い意味で言おう。様々なハードルを抱えた受験生が、あえてきつい言葉でいうところの「健常な」受験生と受験する上で、もともと不利な条件を埋めるための手立てを受けて受験している。受験時間を長く取ったり、一部配点を変えたりして受験したりしているのである。

ある人は、「公正で」良いことだと思うだろうし、またある人は、「不公平で」悪いことだと思うだろう。僕自身はこのようなあり方に反対である。この場で自分の考えを述べないのはずるいと思うので、あえて批判されることを覚悟しながら言うた。というより、誰も見ていないと思うから言えるのであるが。

主な反対の理由は、現場に過剰な負担がかかり公平性が保てなくなるから、ということである。入試の日、われわれ教員がおかれている状況に、世間の理解はあるのだろうか。

別系統での受験においては、その受験生に対して人員・教室など特別の配慮が必要である。一方で、われわれが勤務する学校の環境は、そのような配慮がされる前提で組み立てられてはいない。であれば、教育委員会から特別の人員が配置されたり、場所が提供されたりするのかというと、そうではない。ただでも苦しいところを何とかやりくりして、捻出するのである。

そうすると、委員会は「できるじゃないか」という。監督の教員が休みなく何時間もたちっぱなしになる体制のどこが、「できる」のであろうか。

監督業務にあたっては、『全ての受験教室において、同時にテストが始められるように段取りを行う』『リスニングのときに、余計な音が響き渡らないように厳しく監視する』『受験に有利になるような持ち物の持ち込みがないかチェックする』など枚挙にいとまがないほど、配慮を要するのである。ただ「見てればよい」というような甘いものではない。その疲労は、経験したことのない人にはきっとわからないのであろう。

そのうえ、入試当日は、監督業務以外にも仕事がある。主だったものは、「チェック」である。解答用紙の紛失はもってのほかだが、答案に事後不正が入らないように厳重に、かつ、採点の取り違えなどが起こらないように慎重に解答用紙は取り扱われる。採点に向けて、問題の分析や採点基準の作成も初めていなければ、合格発表には間に合わない。とにかく、入試という行事を普通に進行するだけでも、相当の負担なのである。

公平・公正・平等のための厳重・慎重な作業。疲労は禁物であり、適度なゆとりが必要である。そのゆとりを、「特別」が奪う。結局、大きく考えると「特別」が公平・公正・平等に、支障をきたしているのである。2度目だが、教育委員会が言うところの「できている」のだろうか。

「合理的配慮」とは、文字通り「合理的」であるべきである。できることはできる。できないことはできない。我々と、配慮を求める者とが話し合いをし、お互いに“無理なく”実行可能な落としどころを探って、それを配慮・実行するのが「合理的配慮」であろう。少なくとも僕が目の当たりにした「特別」に関するいくつかの事例に対しては、“無理なく”の部分が抜け落ちたかっこ付きの「(合理的)配慮」であったと感じている。

その絶対数が増えたのか社会的認知が強まったのかは知らないが、「合理的配慮」を求められる場面が多くなっている。我々も考えなければならぬ。しかし、我々がぎりぎりの線で負担するような「(合理的)配慮」にはならないよう、もう少し皆さんにもご理解いただきたいことであるとおもう。

目標をもって行動するということ

組合の新聞の、評価育成システムへの批判の記事について思う。

過去、自己申告票や管理職の勤務評価を総合的に判断して、給与に差のつくシステムになっていることがあった。今は、評価が良い意味でも悪い意味でもとびぬけていない限り、給与には影響しないという。であるならば、自己申告票などただの紙切れである。しかし、それは廃止しろという意味ではない。

確かに、生徒の授業アンケートについては、あり方を問い直すべきであると思う。たとえば、宿題を出したことのない授業であっても、生徒との関係がうまくいっていれば(まあ、往々にして、なれ合いなのだが・・・)「課題の量が適切である」という項目の評価が高いとかいうことがざらにある。要は、生徒との関係の良好さを図るだけであって、各項目の内容がそれほど正確に評価されているとは思えないのである。

生徒は客観的にものが判断できるほど大人ではない。あるクラブの部員は、強制されているのか自発的か、顧問のアンケートをすべて最高の評価にする。あるクラスでは、あの先生をはめてやろうという声が生徒から出て、意図的にその先生の評価が低くつけれれている。こんな話ももまた、ざら、である。これが「生徒」の実体なのだから。このようにしてつけられたアンケートの結果の、どこを参考にすればよいのであろうか。

しかし、授業改善の一環として、生徒の声を聞く機会は必要だ。ただ、いまよりも客観的な結果を得られるようなシステムに改善しなければならぬと思うのである。どうすればよいのか、自分自身、正解を得ているわけではないのであるが、感触を得ている方法はある。「自分の授業改善のために、正しく書いてほしい」という思いを、生徒にぶつけたうえで、教科担当各自が授業の中でアンケートを取る。手厳しい意見も見なければならなくなるが、であるがゆえに、客観的であると思うのである。

目標をもって行動し、その結果を振り返って、つぎの行動にフィードバックするという一連の改善行動は、それをPDCAサイクルなどと仰々しく言わずとも、大切なことであると思う。そうでなければ、成長のない、あるいは、成長したとしても伸び幅の小さい、教員人生となってしまうだろう。そういう教員集団を抱えることは、学校にとってもマイナスである。要は、その時その時の瞬間値を給与に反映させるという考え方が問題なのである。

他人に、自分の意見を押し付けようとは思わぬ。少なくとも僕自身は、常に目標に向けて進む、前向きな人間でありたい。そして、それに口をはさんで足を引っ張ろうとする人種を軽蔑する。

人との関わりの中で、良く仕事をするということ

最近思う。良く仕事を進めるためにはどうすればよいのかと。

自分で100点満点だったと思える仕事など、1度もできなかった。「先生、〇〇についてどうしたらいいでしょうか」いつも、何かにつまづき、誰かに助けを請うてきた。明らかにめんどくさそうに対応されることもあったし、叱責されることもあったと思う。だけど、いつでも味方を得て、それなりの着地点へと話が収まってきた。

いま、目の前にそうならない人がいる。「僕だったらこうする」 話を聞いていて、意見をいうこともある。僕の意見通りにされることもあれば、また別なことをされることもある。要は、話を聞いてほしい、ということだろう。それはそれで構わない。だけど、「なんでそれでうまくいかないのか」という方向に話が進むことが多いのである。

そんな顛末を傍観していると、仕事の進め方について深く考えさせられる。なにが、彼女をこのような状況に追い込むのであろうと。最近、耳にしたのだが、彼女の評価が、彼女に関りのある部署では、ことごとく低いのだそうだ。何となくわかる気がする。彼女の言動を見ていると、自信家そのものなのである。しかし、自己評価がたいへん低いと見える。はったりが効かないのに、自分を過剰に大きく見せようとする、とでも言おうか。

大風呂敷を引くだけなら「言わせておけ」で済む。が、火の粉が飛んでくる、とでも言おうか。彼女と一緒に仕事をすると、彼女のスタンスに振り回され、損させられる。少なくとも、僕の考え方とはまるで違うのである。彼女と僕とのスタンスの違いが分かりやすいエピソードがある。

僕の授業での一コマ。

テスト前の自習の授業での出来事。生徒がいつまでも隣の子と話をやめないので、席を変われと指示を出した。その生徒もすっと席を変わればよいものを、意固地になって変わらない。元からざわついた授業だったので、私語を完全に収めることなど考えておらず、当該生徒が席を動きさえすればそれで矛を収めるつもりであった。

しかし、一向に動かない。「なぜ自分だけが」という思いもあったのであろう。結局その授業の最後まで指示に従わなかった。仕方なく、当該生徒を生活指導室へと連れてゆき、指導をしてもらうという判断をせざるを得なくなった。

生活指導の先生は大変である。僕が、もう少しうまくことを収められていれば、その生徒の指導をしなくてもよかったのであろうに。言い過ぎかもしれないが、僕は僕の仕事を完遂できなかったため、生活指導の先生に「投げた」のである。だから、指導に当たってくださった方に、僕は心から「ありがとうございます、お世話になりました」と伝えた。

問題はそこからである。

どういう経緯でそうなったのかは忘れてしまったが、僕が生活指導の先生に「ありがとう」を伝えたことを問題の彼女が聞き「なんで感謝する必要があるのか」と僕に言った。生活指導の先生は生徒を指導するのが当たり前の職務なので、世話になっても感謝をする必要などないというのである。ある意味で、新鮮な言葉であった。

これが、定年間近の人間であれば話は違うのかもしれない。そうであったとしても、礼儀と謙虚さを忘れる人間を、僕は認めたくないのであるが。しかし、そもそも、僕と歳も近く、職場ではまだ若いほうの彼女が「仕事はしてもらって当たり前」という姿勢でことに当たる。まっとうであったとしても、そういう言動で当たられた方は心外であろう。

彼女は、そういう風に考えられないのである。それはそれで一貫しておればよいのであるが、彼女自身がほかのだれかに同じようにされたときには、腹を立てているのである。ひょっとすると、やり返されているのではないかと思うことさえある。僕自身も彼女に対して、不満に感じる部分が多い。2度と深く仕事では関わりたくないとさえ感じる。

たいへん厳しいことを言わせてもらえば、視野が狭すぎる。齢30にもなってこれでは、周りに敵を多く作るはずである。

僕のスタンスは「謙虚であること」慇懃無礼に思われる部分もあるであろうが、「何かをしてもらう」という姿勢を崩さない。そして、仕事に対しては、謙虚に少し多めに頑張る。損することも多いのであるが、何かが起きたとき必ず誰かがサポートしてくださる。

初めから「完璧であること」を放棄し、そのための保険として普段いい顔をするというやり方が、正しいのかどうか分からない。実際、なめられているのではないかと感じることもあって、度が過ぎたときには文句を言わねばならんという辛さを伴う。ただ、しかしである。少なくとも、彼女よりはうまく物事が回っている。

今年、年齢の10のケタが変わる。他の1年と大して違いないはずであるが、節目であるという気持ちが強い。分相応に考え方を改めてゆかねばならないのであるが、一方で、謙虚さを忘れたくはない。いろいろな方と接してきたが、「この人と仕事がしたい」「この人についてゆきたい」と思った人はみな、実直・誠実で、どこかに謙虚さを持っていらっしゃった。そして、そのような方々はみな、周囲をひきつけ、うまく仕事を回していたように思うのである。

いろいろと、彼女に意見をしてきたが、本当に伝えたいのは、「もう少し感謝をしなさい」ということと「みんなに見えるところで仕事をしなさい」ということである。いつでも「自分は未熟である」という姿勢の表れが「感謝」。そして、「一緒に仕事を頑張りましょう」という姿勢の表れが「ともに仕事をすること」。

謙虚さから抽出した、「感謝」と「前向きさ」。この2点が、仕事をよく進めるうえで大切なことではないか。今年30の節目に、同僚の言動を見ながら感じたことを、ぐだぐだと述べてみた。

それにしても、僕は、人付き合いが大変苦手なのであるが、彼女は、もっと苦手なのであろうなと、思いを馳せながら、今日この記事を書いている。

一年の計2017

せっかく作ったウェブサイト。活用しないともったいない。ちょうど新年なので、今年の目標を一つ。

転勤1年目。担任や重要な役職は免れた。が、下働きは多かった。授業だって5種類16単位も持った。

今年から初めて開設される学校設定科目。今まで一度も教えたことなく、しかも専門外である地学。二時間連続の化学が学年違いの2種類。

決して楽とは言えない幕開けだった。だけど、それはきっと序の口なんだろう。この授業数はそのままに、役職や担任が回ってくる。

前任校の自分なら、よくわからんうちに笑って引き受けた。

「今年はそうはさせない」主張すべきことは主張しつつ、適切に仕事を引き受ける。なぜなら、現任校はあくまで現任校。

自分の教員としての目標は「自分なりの理科教育をつきつめる」こと。ここで必要以上に頑張っても達成できない。だから、思い切って学生やることにした。

働きながらの学問はしんどいと思う。しかし、若いうちでないとできないことだ。だから、今年行動に移す。

以上を踏まえ、今年の目標をまとめておこう。

1.自分なりの理科教育の追及を続けること
2.学生生活を踏まえた生活リズムを確立すること
3.必要以上に学校の仕事に関わらないこと

がんばるぞ。